アンパンマンは微笑むか
幼いころの記憶はあるほうだと思う。
だいたい3歳以降(2歳後半以降)のことは覚えている。
とは言え勿論、こと細かに覚えているかでいうとそうではなくて、3歳の頃のことと、幼稚園の頃、小学生の頃、中学生の頃、高校生の頃のことを、すべてにおいてだいたい同じ粒度で覚えているような状態。
(大学時代以降については、さすがに直近10年以内であることと、スマートフォンという革命的アイテムのおかげでまだ記憶が地続きにある感覚なので、浮かぶ写真が少し鮮明になる。)
覚えていることの例を挙げると、2~3歳の頃のわたしは、「ヘリコプター」のことを「へびこぶたー」と呼んでいた。
「ヘリコプター」なんて単語知らなかったけれど、「へび」と「こぶた」は知っていたので、親が話す言葉を何度聞いても「へびこぶたー」にしか聞こえなかった。
他には、「大人にはよく名前と年齢を聞かれる」と思っていたけれど、その「名前」や「年齢」が果たす役割や示す意味をイマイチ理解し切れないままだった。
「がちゃぴんです」「にしゃい(2歳)です」というフレーズだけを覚え、「これが聞かれている内容だ!」といっしょくたに覚えていたので、かなりの頻度で
「お名前は?」「にしゃいです」
「何歳ですか?」「がちゃぴんです」
というちぐはぐな回答をしていた。
そういう感覚を、「あの頃はね、」の粒度で覚えている。
先日インターネット上で、「どうして子どもはアンパンマンが好きなのか」という話を見かけた。
ざっくり科学的な観点から見ると、丸っこいフォルムだとか、目と鼻の位置の視認性の高さだとか、 物語性だとかいくつか要因があるらしい。
さすがに乳児の頃の記憶はない(ので好きになるきっかけについては何も言えない)が、少なくとも「3歳前後の頃になぜアンパンマンを好きだったか」はしっかり覚えている。
「アンパンマンがそこにいると、幼心に”ここは自分がいて良い場所だ”とわかるから」だった。
ニワトリたまごのような話だが、「子どもはアンパンマンが好きだ」が十分に知れ渡っていた90年代前半、子どもが絡む環境すべてでアンパンマンが社会インフラのように整備されていた。
小児科のぬいぐるみや絵本もアンパンマンだったし、幼稚園バスの柄もアンパンマンだったし、ぬりえやお絵かき帳、工作するときのモデルもアンパンマンだった。
そうして、わたしの頭の中には「アンパンマンはわたしたち向けのもの」と刷り込まれていった。
すると、知らない場所へでかけた時、新しいコミュニティに参加したとき、そこにアンパンマンの絵があるだけで「あ、ここは自分向けに準備されている」と思えるようになった。
なので、きっとわたしの場合は、正確には「アンパンマンが好き」ではなかった。
「笑顔のアンパンマンがある場所=幼いわたしがいて良い場所」という、安心の目印だった。
「小さい子はある時を境に突然アンパンマンから卒業する」というのも、わたしの場合はまさにこの延長上にある話であって、年長さんになる頃には「これは赤ちゃんとか小さい子向けのマークだ」と、「自分はもうそこの対象年齢じゃないのよ」なんていうおマセさんな気持ちになっていたからだった。
(ちなみにこの頃はそれはもうセーラー戦士に心酔していて、セーラーマーキュリーに憧れまくっていたのだけれど、その頃マーキュリーが言っていた「みんな!パソコンから離れて!廃人になってしまうわ!」というセリフ通り廃人になってしまった。悲しみが強い。)
わたしはおマセさんになってアンパンマンから卒業したけれど、あの「ここにいても良いんだ」という気持ちは本当に安堵感に溢れるものだった。
例えば、今この年齢になってもおしゃれなレストランで「自分には不似合では」と緊張するように、お偉いさんばかりの会議で「わたしの意見は聞いてもらえるか」と不安になるように、「ここは自分がいて良い場所か、受け入れてもらえる場所か」という懸念は心に付きまとっている。
これを、アンパンマンはあの微笑みで一蹴してくれる。
アンパンマンがそこにいるだけで、幼いわたしに「君はここにいて良いんだよ。」と教えてくれる。
「ここは君たちに向けて作られているし、君たちの話を聞いてくれる人もいる」と明確に示してくれる。
それがアンパンマンの存在だった。
28歳にもなった今、自分の居場所を明確に教えてくれるアンパンマンはいない。
もしかして「アンパンマン」は恋人や配偶者なのかもしれないけれど、残念ながらそんなブランニューアンパンマンはまだ見つからない。
新しい場所を、おそるおそるのぞいて、ひとつひとつたしかめて、そうこうしているうち、わかりきれないままに物語は進んでく。
日々が楽しくないとは決して思わないけれど、何もかも安心して信じられる場所で休憩したいとは思う。
今だからこそ、「ここでいいよ」とアンパンマンに微笑んでほしい。
帰りたくなりすぎて、わたしの中身だけ帰った。
色々書いて何度も書き直してどんどん訳がわからなくなったんだけど、できれば「帰りたい。」って日々思ってるひとに読んでもらえたら良いなと思う。
あとまさかの不思議ちゃんオカルト展開だから、年末の都市伝説SPみたいな気持ちで読んでもらえたら良いなとも思う。
もう10年以上前の話。
まだ高校生だった頃、それはもう人生最大の人間関係の台風に飲まれてた。
風速80m/sくらいの超巨大台風。レンガの家でも吹っ飛ぶくらいの台風。
とりあえず四半世紀だけでも生きた今振り返れば、
(1)いやいや自分の思ってることちゃんと言えよ
(2)周りのこともっとちゃんと見てろよ
この2つ以外にかける言葉が見つからない程度の話なんだけど、当時の自分に見えていた世界は「一番仲良かったはずの子から、気付いたらめっちゃ嫌われてた。なんで。何があったの。」だけだった。
それはまあ色んなことがあった。
本論はそこじゃないのでできるだけ端折るけれど、要はクラスメイトの「アイツが笑ってるのがムカつく」「友達に悪口吹き込んでやれ」の目論見にまんまと嵌ったらしい。
でも結局のところ、そんな安易な悪意に基づく台風で人間関係が乾いてしまうほどに、周囲のひとに対しての感情表現を怠っていた。その大切さを甘んじていた。わたしの怠惰が原因だった。
そんなんだから、絶対に吹き飛ばないレンガの家だと信じて疑わなかった家から地道にレンガが減っていることにも気付けていなかったし、じわじわ軽くなっていた家はある日の強風で一気に吹き飛んだ。
一回失ったものを取り戻すのは難しいし、一見整ったように見えても本当のことは見えていなかったりするんだと、10代の後半で初めてちゃんとぶつかった。
そんな初めての超巨大台風に、ただただ慌てふためいたり意固地になったり諦めたり諦められなかったりを繰り返したわたしは、最終的に「帰りたい。」と毎日ぼんやり思うようになった。ここに居たくない、と思った。
幸いにもそばにいてくれた他の友人らと日々を過ごせていたのに、いつも一緒だったはずの友人から日々冷たい言葉を浴びることがひどく悲しかった。
(あの頃の、意固地になって凝り固まって潤いのカケラもない、乾燥後の紙粘土みたいなわたしと一緒にいてくれた友人らは、本当に素晴らしいひとたちだと思う。)
そんなある日、わたしが勝手に帰った。
びっくりした。
家に帰ると、母に「今日帰ってくるの二回目」と言われた。
確かに、めっちゃくちゃに帰りたかった。
お昼すぎくらいに、「もう今すぐ帰りたい!!!!おうち帰る!!!!!!」
と思っていた。
そしたら、帰っていた(らしい)。わたしが。
その日我が家のリビングには、母と、テスト週間で早く帰宅していた弟がふたりでいた(らしい)。
すると、お昼すぎたころに当時引き戸だった玄関の扉がガララッと開く音と、「ただいまー」というわたしの声が響いた(らしい)。
日常通りの聞き慣れた音に、母と弟はリビングから「おかえりー」と返した(らしい)。
が、帰ってきたはずのわたしが一向にリビングに現れなかった(らしい)。
そしてここで母と弟が「そういえば、お姉ちゃん帰ってくる時間まだまだじゃない?」と。
そして夕方頃、わたしが二度目の帰宅をした(ことになっている)。
あれから何度確認しても、母と弟は口をそろえて「あの日貴女(姉ちゃん)は帰ってきたよ、間違いなく。」と言う。
わたしはといえば、「授業中に居眠りしてて、その夢の中で家に帰ってた!」
…なんてことはなく、ただ、あの日はたしかに、めっちゃくちゃなくらい家に帰りたかった。
母の中では、「あの日がちゃぴんちゃんは中身だけ先に帰ってきた」ことになっている。
そして「行きたくないなら行かなきゃ良いし、帰りたいなら帰っておいで。」と言ってくれた。
それから数日後、「あ!無理!帰ろう!」と思ったわたしは、それまでよりずっと軽い足取りで職員室に向かい、
「先生、帰りたいので帰ります。」
と言って家に帰った。思ったままに伝えて、思ったままに足を向けて、つらいと思ったことから一旦逃げることは、思っていた以上に心を軽くしてくれた。
見事にベタな話だと我ながら思うけど、よく晴れた日だったことをしっかり覚えてる。
結局その人間関係は元のかたちにはならず、だけど、これも見事にベタな話ながら、おかげで出会えた新しいものも沢山あったと今は思う。
こんなことを思い出したきっかけはいくつかあって、
先日、偶然「元いつも一緒だった友人」のTwitterアカウントを見つけた。心の中に風速17.1m/sくらいの風が吹いて小さな台風が起きかけたけれど、元気なら良かった、と思った。
さらに先日、紙粘土だったあの日のわたしと一緒にいてくれた友人が結婚した。結婚式で披露されたケーキは彼女と旦那様の共通の趣味が詰め込まれたとても素晴らしい逸品で、そのウエディングケーキの画像を添えた参列者の方の投稿がTwitterでバズり、数千RTになった状態でTLに流れてきたときは綺麗に二度見した。
実はあともうひとつ、10年前のその頃、初めて「ネット上でのお友達」ができた。
鍵付きのはずの彼女のcroozブログに、システムエラーで迷い込んだのがきっかけだった。
目の前の狭い現実はずっと台風で荒れていた日々に、画面の向こうの友人は大きな支えのひとつになった。
先日、そんな彼女からLINEで「結婚式するから良かったら来てね」と連絡を貰った。
色んな気持ちがよみがえって、「!」とだけ返してしまった。「おめでとう。もちろん、いつでもどこへでも行くね。」と付け足した。
高校生から会社員になって、アナログだけの世界からcrooz、そしてTwitterやLINEになって、沢山の日々が過ぎたなかで沢山のことが変わっていった。
思ったより簡単に、帰りたい、と思えばスッと帰れたし、見事にベタなセリフだけど見える世界は変わったし、インターネットが繋ぐ先から届く言葉でもっと世界は広がって、暖かい灯りがひとつずつともった。
そして見える世界が変わったそのまま、意外にくるくると人生を進めてこれた。
たどり着いた今の日々の中でたまに疲れてしまっている時、母は「帰ろうと思えばいつでも帰れるのよ。」と笑う。
あの日勝手に帰宅したわたしは、きっと心底帰りたかったんだと思う。
今だって「帰りたい。」と思うことはたくさんあるけれど、今のところはそれなりに頑張れている。
だけどもし、あの日ほどに強くそんな風に思うことがあったなら、今度はちゃんと身体ごと家に帰ってお布団にくるまってあげようと思う。
いつも28歳だった父のこと
わたしが幼いころ、父はいつも28歳だった。
20年以上前、年齢を訊ねると
「僕?28歳だよ。」
と笑った父は、そのままいつまでも28歳だった。
誕生日に年齢を訊ねても、
「今年で28歳かな。」
と、ろうそくの本数にそぐわない年齢を答えていた。
10年前、わたしは18歳だった。
父はもちろん、28歳のままだった。
「個室が良いってわがまま言ったらここになった。」
と笑う父は、”天国に一番近い部屋”で、ずっとバラエティ番組を観ていた。
わたしはいつも、学校帰りに制服を着たまま病室へ通っていた。
数年前、父は38歳になった。無事に歳を重ね続けた父は
「さすがに28歳じゃないかな。」
と、20代の娘を前にして笑っていた。
お医者さまから「僕にも理由がわかりません」と告げられた奇跡の寛解から数年、父は変わらずふざけて笑っていた。
1年前の今日、わたしは26歳を終えた。
「母がわたしを産んだ年齢」を終えた日だった。
明日、わたしは28歳になる。
そりゃ父も「38歳」になるわけだ、と思う。
わたしにとって「28歳」といえば、「父の年齢」だった。
ところがいざ自分がその年齢を迎えてみると、親になるなんてとんでもない、大病を越えるなんてとんでもない、まだまだふらふらした子どものままだった。
父が言う「28歳」には、どんな像が描かれていたのだろうと思う。
28歳のうちに、お酒でも飲みながら聞いてみたい。
明日、父には感謝のことばと一緒に
「こないだまでのお父さんに追いついたよ」
なんて言ってみようかなあ。
昔、「知らないおじさん」と住んでいてわかったこと
信じるか信じないかはアナタ次第です。
こんにちは、最近どうやらツイていると全わたしの中で評判、27歳がちゃぴんです。
ただ、基本的に「せっかくなら不運だと思いながら生きるより幸運だと思って生きたほうが人生楽しいもんな!こう思える時点で幸せだな!ラッキー!」みたいな心情で生きているクチなので、27年間のうち219,000時間くらいは「わたし…ツイてる!」と思って生きてきてます。残りくらい17,500時間くらいは物心ツイてなかった時期です。
下手な自己啓発本よりポジティブ。
母親から、「あのね、あなたの考え方はひととは少しズレてるの。」と偶に思い出したかのように言われる。ちなみに続きは、「あなたはね、ポジティブすぎるの」。母親から「あなたは、尋常じゃなくポジティブなの。わかる?尋常じゃないの。」と念を押されたことがある人間ってそうそういないと思う。
— がちゃぴん(やきにくたべたいbot) (@hosomiholic) 2016年8月18日
さて、気が付けばもう夏もほとんど終わりに近づきました。
皆さん、夏の思い出はできましたか。
夏の思い出!手を繋いで!歩いたことないな海岸線!
むしろ最高の環境下のフェスでその曲聴いた次の日にひとりで海見に行ってたわ。でも本当に綺麗だったから夏の思い出ポイント98点くらい加算されると思う。
こんな綺麗な海をひとりで見てきました。宮ロック、宮古島、本当に素敵でした(写真は来間島からの景色。対岸が宮古島。)。
また行こう。できれば今度は2人以上で。
とは言え。今年は、最後の週末に海辺でBBQしたあと花火をして、友達がギターを弾いて、深夜の都市高速の光を横目に皆で「生きていて良かった!生きていて良かった!そんな夜を探してる~!」とフラワーカンパニーズ「深夜高速」歌ったりしたんで、夏の思い出ポイントは最終問題ボーナスで100億点くらい貯まりました。
(引用元 youtu.be フラワーカンパニーズ『深夜高速(25th Annivarsary Mix)』)
結果として今年の夏の思い出ポイントは100億98点で着地となりましたが、その他の夏の思い出は…というと、わたしが夏になると必ず思い出すことがあります。
まだ弟が生まれる前、1~3歳の頃、わたしは、わたしにとって「知らないおじさん」と住んでいました。
仮におじさんが強面だったり、いつもおじさんに叱られたりしていたなら、わたしも一緒に住んでいたくなかったと思います。
でもおじさんは、いつも物静かに、穏やかに暮らしていて、怖いと思ったことは一度もありませんでした。
というか、かなり気ままに暮らしてらして、だいたいいつも私たちより先にベッドに入って眠ってらして、気が付いたらベッドから消えてて、わたしが母と庭で遊んでいたら窓からぼーっとそれを眺めていたり、いなかったり。
たまにふとその頃の話をすると、母はいつも
「私、本当に怖かったのよ。」と言います。
わたしが幼稚園に入園するタイミングで私たち家族は隣の市へ引越しをすることになったので、そのおじさんとの生活も終わりました。
それ以来、一度も会っていません。
たまにふとその話をすると、母はいつも
「がちゃぴんちゃんがいつも”おじさんのいる場所”を教えてくれるから、私には見えないし、本当に怖かったのよ…。」と言います。
当時母の実家で飼っていた犬は、我が家に遊びに来ても、吠えるばかりで絶対に入らないエリアがありました。
当時ご近所さんだった方から、10年近く経った頃に「実は当時、うちの旦那がお宅から大きな光の球が飛び出すのを見て焦って帰ってきたことがある。」と言われたこともありました。
おじさんとは、引越して以来もう二度と会っていません。
ということで、今日は9月いや8月32日。夏もついに終わりいや佳境です。
皆さん、夏の思い出は作れましたか。
今日は、わたしが夏になると思い出す記憶、まさに「夏といえば」なひんやりするお話、知らないおじさんと住んで「生きてなくても寝るんだな…」と分かった体験談でした。
どうやらやっぱりツイてました、物心ツイた頃には。
生きていて良かった!!!
空に星が降る夜は
「強く励ましたりなんてせずに、優しく甘やかしてくれます。
別にそのままで良いと、そっとしておいてくれます。
だからこそ、強く強く励まされます。」
二つ前の冬の日、あの「シブツタ」で、自分の大好きな音楽に、自分が書いたこの文章がそっと添えられてるのがとても嬉しかった。
先週末はその大好きな音楽に浸ってきました。
冒頭の文章を書いた日からまだほんの少ししか時は流れていないのだけれど、今もこの言葉と寸分違わず同じ感情でいるかというと、少し違うような気がしています。
たぶん、その間にわたしはすっかり社会人になってしまったし、母が自分を産んだ歳に追いついてしまったし、見える景色が少しずつ変わってしまったんだと思う。
こないだふとツイッターで
「いつまでも同じ笑顔で同じところにいてくれる存在なんて大仏様くらいだから気をつけたほうが良い。」
なんて言ってみたりもしたけど、よくよく考えたら自分も自分でどんな荒波にも流されずに同じ場所に居なきゃ、大仏様の笑顔さえ遠のいて見えなくなるんだもんね。
流されてくなかで、少しでも流されないように掴んだり頼ったりするものも変わってくし、変えてかなきゃいけないんだろうね。
世の中本当にハードモードだ。
だけど、今回のワンマンライブを観に行って、自分から見える景色が変わってきた今も、わたしは変わらず彼らの音楽が大好きなんだなあと実感した。わたしにとって、流されないように掴んでたいもののままだった。
背中を押さずにいてくれるから、背中を押してもらえた気になる。
相も変わらずそういう甘やかし方をされている気分になった。
大きな顔して言うことではないけれど、残念ながら、わたしは楽器や音作りの詳しいことが何もわからない。だから、例えばあの曲はここをこう変えたからより重厚に聞こえ始めたんだ、とか、あっちの曲はここをああ変えたからより鋭い音になったんだ、とか、そういうことがわからない。
そういうことがわかれたならもっといろんな角度から楽曲に浸れるのかと思うと、ちょっとだけ悔しい。
でも、それでも、昨日見たライブでの音楽たちはなんだか少し今までと違って感じた。
言葉にしてしまうとシンプルすぎるのだけど、ただただ、もっとずっと格好良くなっていた気がした。
何かと何かを比べるような言い方は好きではないけれど、今までのライブで聴いていたはずの耳に馴染んだ曲たちも、一層重厚で鋭く、格好良くなっていた気がした。
日々色んなものがぐるぐるまわって流れていて、自分の変化さえわからないのに、「きっとここが変わったんだ」、なんて全く分からないけれど、少なくとも、今のわたしにとって、声も、音も、笑顔も真顔もしかめた眉も、振れる頭も揺れる景色も、何もかもが堪らなかった。
なんだろうな、まるで、すごく熱い氷みたいだった。
すごく熱を帯びた、ひどく鋭利な氷みたいだなと思った。
その熱で蒸発して、ふつと幻のように消えてしまわないかとさえ思った。
格好良かった。本当に。
大好きなバンドだ、って、改めて思った。
Suck a Stew Dryを、もっと、ずっと、観ていきたいと思った。
始まった途端から終わらないでほしいと思ってしまった。
最高の夢ほど悪い夢、なんて言うこともあるけれど、まさに最高の夢のような時間でした。
日常に輪を掛けて憂鬱な梅雨の木曜日に家に帰るといてほしい3人の斎藤工
あまりの雨に毎日外に出るたび持ち物はびしょ濡れ足元もすべりがち洗濯物も乾かないしかし平日はまだ残されている。そんな、日常に輪を掛けて憂鬱な梅雨の木曜日、皆さまいかがお過ごしでしょうか。
6月ってなんなん?梅雨?わたしのゴールデンウィークどこ行ったん?
もしかしてもう2か月近く前に滞りなく終了してしまったん?マイゴールデンウィーク。
滞りなく終了するのは卒業式と結婚式だけでいいのに。
皆さまからのアツいご期待にお応えして次週日曜9時くらいから再登場しないかなゴールデンウィーク。
いっそ明日だけでも良いからTOKYO FMをキーステーションに全国38局ネットでお送りしてくれないかなゴールデンウィーク。
水曜・木曜って通常運行でもかなり憂鬱なのに、このままだと憂鬱に輪が掛かりすぎて輪投げならもう景品総取り。
もう戻ってこないとは知りながらまだ想いを馳せることをやめられない今年のゴールデンウィーク。
早くも期待してやまないシルバーウィーク。
せめて家に帰ったら斎藤工とかいないかな。
ということで、タイトルの通りです。
日常に輪を掛けて憂鬱な梅雨の木曜日に家に帰るといてほしい3人の斎藤工。
はいヒーウィーゴー。
(1)最近突然料理にハマり始めた斎藤工
「ただいま~…」って帰ったら奥からひょこって顔出してくれる斎藤工。
「おかえり~。今日は元気が出るようにカレーにしてみた」と美味しそうな香りがする我が家(白基調でいい感じに明るい)。
「わ、ありがとう嬉しい~」
最近料理にハマってることはふたりの間では自明だから、おかえり、って話の続きに突然話題が変わってもごく自然に会話が成立するんですよね。
「ローリエとローレルって同じもので呼び方が違うんだね。買うときに一瞬悩んだ。」だそうです。
「そうだねぇ、個人的には日本語の”月桂樹”が一番綺麗な気がしてる。」と答えると、
「うっわ、それ凄く分かる。」だそうです。
はい幸せってこういうこと~~~
とりあえず、家に帰ると斎藤工いるとしたらマンションのエレベーター乗る前に必死にメイクを確認しないといけない。大変。
(2)鍵を忘れてマンションのエントランスで困ってる斎藤工
「しまった、鍵置いてきた」
ってLINE来た。最寄りで電車降りたら。
「(任せとけ!的なスタンプ)」
「(頼んだ!的なスタンプ)」
「18:46に駅に着くから急ぐね!」
「転ぶ未来しか見えません。」
ってやり取り。
でも、結局ちょっと駆け足で家に向かうんですよ。だってエントランスに斎藤工待ってるから。
とりあえず、エントランスで待ってるとしたら駅改札出る前に必死にメイク確認しないといけない。大変。
あと、18:46に最寄り駅に着く職に就きたい。
(3)早くも次の連休の予定を立てながら意外にウキウキしてる不動産会社勤務の斎藤工
不動産会社はたいていGWと毎週水曜日がお休みなんですよね。だから昨日がお休み。
わたしが最近「ゴールデンウィークってどこに消えたの~~~」って言ってたから、休みの日にゴールデンウィークの思い出を何となく振り返りつつ家でゆっくりしてたらだんだん次の予定立てたくなってきて元来の「事前にきっちり行き先決めて計画を立てたい」性格がくすぐられて家でコーヒー飲みながらずっと「次に行きたい場所」調べてたらしい。
で、今日会社帰りにパンフレットとか収集してきたんだって。
「遊園地?観光地?ショッピングモールもいいねえ…」
わーなんかいっぱいサジェストしてくれる。何これ。嬉しい。
疲れてる時にそんなこと言われても…とか思わない。だって目の前には柄にもなくウキウキしてる斎藤工。
ちなみに今そっとグドモの歌詞差し込みました。
ちょっと笑いながら(脳内はデレッデレ)となりに座ってPC覗き込みつつ、「なんでそこにショッピングモールが入るの?」って聞いたら、
「いやぁ、さ?最初は温泉でゆっくりもいいかなって思って。でもさ、君遊園地とかも好きでしょ?だからナガスパ?とか、見てて。そこなら温泉も遊園地もあるみたいだし。でも、近くにアウトレットモールもあるなあと思ってHP見てたら、だんだんインテリアとか家具とかほしくなってきてさ。でもさ、そういうのって選ぶのも買うのも時間かかるでしょ?そしたらさ、ふたりでアイデア出し合ってまる一日かけて部屋をリニューアルするとか楽しそう!って思ってきてさ、でさ、だったら全部揃えられそうな大きいショッピングモールとかさ、…」
何この人ちょーかわいい。
いろいろ見てたらいろいろ浮かんでいろいろしたくなったんだねかわいい。
あと思考の順番通りに次々説明しようとするから語尾が全部「○○でさ、でさ、」って最早口癖みたいになってるのちょーかわいい。あんたがたどこさも裸足で逃げ出す可愛さでかわいい。
「でも意外だね。人ごみとか、苦手だと思ってた。」って言ったら、
「…今回さ、やっとお互いの予定合わせられてGWに遠出してさ、凄く楽しかったんだよね。だからさ、人混みがーとかばっか言わずに色々見てみたいと思ってさ。」
何。何それ。ちょっと照れてるの何それ。見よう。行こう。次の連休もおでかけしよう。どこまでも行こう。なんならもうこれを機にずっと延び延びになってたお互いの実家へのあいさつとか行こう。あなたの家から行こう。あなたの家どこ?肥後?肥後どこ?熊本?熊本のどこ?熊本なら温泉あるね。いいね、温泉行こう。
わたしはとりあえず温泉に行って休みたいです。
母親の嘘に気付かずすくすく育ってわかったこと
母には勝てない。
こんにちは、26歳がちゃぴんです。
26歳がちゃぴんです。
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!
気付いてしまったんですよね。
「26歳がちゃぴんです」って言えるの、あと1か月と少し。その後は「27歳がちゃぴんです」。いや、別に26も27も、実際そんな違わない。敢えて言うなら27歳ってあれですよね、ロックスターならしぬ。
ロックスターじゃなくて良かった。まだそっちのドアーくぐってあっちにダイブしたくはないです。
前述の通りわたしはロックスターではないので、実際のところ26歳でも27歳でも日常生活には何の違いも生まれません。ただ、個人的心情において、ちょっとだけ違うんです。
SUPER BEAVERのアルバム「27」の表題曲、「27」に、こんな歌詞があります。
ロックスターは死んだ まだ僕は生きてる
母が僕のことを産んだ 幾つのことだっけ
(SUPER BEAVER/27 - TOWER RECORDS ONLINE)
母がわたしのことを産んだ まさに26のこと。
母が26歳のとき、わたしが産まれました。その26歳をついに終えてしまうんだと思うと今までとは少し違います。
わたしが日々産みだしてるのは140文字くらいだよ…母親が26歳のときに産みだした生命は、26年経ってひたすら140文字を産みだしてるよ…。
まあ良いんだ…何事も母には勝てないものです…うん…。
わたしはそんな母に、幼いころから本当に多くのことを教わりました。
大好きな、そして自慢の母親です。
今ではすっかり「当たり前」として認識していることは、幼いころに母から学んだ諸々が礎にあります。
「お魚は美味しくて身体にも良いよ。たくさん食べるんだよ。」と幼いころから食卓に様々な料理を出してくれていました。
「お花も虫もみんな名前があるんだよ。なにも怖くないよ。」と一緒に花壇の世話をしてくれました。
「お店の人にもちゃんとごあいさつするんだよ。なにも恥ずかしがらなくていいのよ。」とたくさんのひとと話す機会を与えてくれていました。
何十年も経った今、魚は大好きで、花の名前を覚えることも好きで、虫も怖くなくて、一人旅で出会った方とついつい話し込んでしまうような26歳になっています。
まさに、三つ子の魂百までとはこのことでしょう。
まあこれ、全部だまされてたんですけど。
物心ついた頃にじわじわ気付き始めたんですよね。
「あれ、そういえばお母さん、魚あんまり食べないよね…?」
「あれ、そういえばお母さん、虫とか爬虫類とか思いっきり苦手だよね…?」
こんなことがたくさん。
ある日、母が話していました。
「私ね、結婚してすぐの頃、お肉屋さんで”これを200gください”って声をかけることもできなかったの。恥ずかしくて。」と。マジですか。
大阪生まれ大阪育ちのシティガール、かつ、祖父が「こーーーーーーーーーーーーーんな大きな箱に入れて育てた(ジェスチャー付)。」と明言するほどのいわゆる「箱入り娘」だった母は、結婚するまで知らなかったこと・苦手だったことがとても多かったそうです。
そこで、わたしが産まれたときに母が決めたことが、「教えられることは何もかも教える」「自分の”苦手”で子供を左右しない」。
そのために、「魚、頭がついてる状態なんて本当無理本当怖いこっち見てくる本当無理…」なほど苦手なのに、様々に調理して、わたしに出してくれていました。
シティ生まれシティ育ち故に虫にも慣れておらず、悲鳴を上げるほど苦手だけれど、自分は我慢して「怖くないよ」と教えてくれていました。
「小さい頃まわりになく、触れる機会もなかった」そうで草花の名前もあまり知らず、わたしと花壇をつくる中でひとつひとつ覚えいったそうです。
どうりでうちの母、「がちゃちゃん、なんかね、近くの土手の草むらを綺麗にしたくて草むしりしててね、すすきの葉っぱみたいなのを素手で引っ張ったら、手のひらいっぱい怪我した…なんかスパッて切れた…」
なんていう、アイワズボーンinカントリーサイドな人間からしたら文字列をなぞるだけで手のひらやひざ下に古傷がある気がしてゾクっとし始めるようなことをきょとん顔で伝えてくるわけです。
しかし、母親のそんなたくさんの「嘘」のおかげで、わたしは幼いころから色んな世界に出会うことができました。色んなことを”苦手”にせずに済みました。
魚は大好きで、花の名前を覚えることも好きで、虫も怖くなくて、一人旅で出会った方とついつい話し込んでしまうような26歳になっています。
すっかり、母の術中に嵌まりました。
母には勝てないです。
もうすぐわたしは27歳になります。母は、今のわたしの年齢でわたしを抱いていました。
まだまだ遊び呆けてばかりでそんな未来が欠片も見えない状態ですが、いつかのその時、わたしも母のような人間でありたいと思っています。今と将来の両方にしっかり目線を遣れる人間でありたいと思っています。
そして、心からそう思える親のもとで成長できたことに、歳を重ねるほど幸せを感じている26歳の日々です。
数年前に、母と一緒にとあるバラエティ番組を見ていました。
虫が苦手なタレントさんに、虫のおもちゃを近付けるドッキリでした。
「お母さんのおかげで虫も怖くないもんなあ」と呟くわたしに、母から返ってきた言葉。
「そうね。子供たちが虫を怖がらないように頑張ったもの。だって、おうちに虫が出たときに代わりに退治してもらわなきゃいけないからね。そのために、一生懸命”怖くないよ~”って教え込んだんだもの。」
やっぱり母には勝てないです。